子供の頃のこと 「大丈夫?」ってどうして聞くの?
なかなか今のことに向き合えなくて、強迫性障害のことも今感じている強迫観念のことをもう少し何を具体的に感じているのか掘り下げて書こうと考えようとすると、心が防御状態になり「無」になってしまう。
そんな感じなので、今日はまた子供のころの時に感じたことについて書こうと思います。
たぶん幼稚園に入る直前か入った直後ころの事だと思います。
その日は公園の滑り台で遊んでいて、どうしてかは忘れたけれど滑り台の一番上から、落ちてしまいました。
そうすると、たくさんいた子供たちが「だいじょうぶ?」「だいじょうぶ?」と集まってきました。
私は外では泣かない子でしたので、その時も泣かなかったのではないかなと思います。
痛みの中、(だいじょうぶ?って聞いても私の痛みがなくなるわけじゃないのにどうして「だいじょうぶ?」って聞くのだろう???)ととても不思議に思いました。
その時の気持ちは今も覚えています。
幼少期の私の家では「大丈夫?」なんて言葉は存在しなかったと思う。
でも知ってはいたから、テレビなどからの知識だったのだろうか?
私の人生からっぽだなあと思う。
自分がないにもほどがあって(奥の奥には確かにあるのだけれど)、今生まれたと思って始めればいいのかな。
私は苦しみたくないだけで、幸せになりたいわけではないのだと思う。
数年前までは漠然とした希望を持っていたけれど、幸せなんて望んでいなかったということに気付きました。
オキシトシンが間違った場面で分泌しているとかそういったことはないのだろうかと思う。
セッションの時に感じた母に罵られている状態を追体験したときの、絶望感と同時に感じる何とも言えない安堵感?解放感?上手く言語化出来ないけれど、あれは何だろうと思う。脳が間違えて機能してしまっているのではと思う。
依存症の状態と同じような・・・。
本当にうまく言えないけれど・・・。自分でも良くわかっていないから言語化出来ないのだろうな。
ここから抜け出せるのかな。
強迫性障害と罪悪感2
昨日の続きです。
覚えている中で1番初めに感じた大きな罪悪感は、
私は幼い頃母は地獄に落ちると思い込んでいました。けれど、母は弱くて耐えられないので、私が替わってあげないといけない。
でも私もすごく怖い。実際に閻魔様の前に行ったら、逃げてしまうかもしれない。助けられなかったらどうしよう。自分が逃げてしまったらどうしよう。といざ閻魔様の前に行った時逃げてしまって母と替わることができなかったら・・・ということに対してとても大きな罪悪感を感じていました。
私のその頃の地獄のイメージは血の池とか針の山で(今でも地獄のイメージはそう変わりませんが・・・)何回死んでも生き返り永久に苦しみ続ける・・・いつ終わるかわからない苦しみです。その恐怖や痛みに自分が耐えられるかわからないと幼い頃の私は感じていました。
いつもダイニングで母の背中を遠くから(実際には狭いのでそんなに遠くないはずですが、すごく遠く感じていました)見て、このことが頭のすべてを占めていました。
あとは家の階段にうずくまり、このことともう一つ当時の自分にはどうしようもないことがあったのですが、そのことについて考えてというよりは、ただひたすらどうしようどうしようと感じていたように思います。
だから、私にとって罪悪感というのは感じて当たり前なのかもしれません。
何だかこう考えると、機能不全家族で育ってそれは不運だったけれど、一番自分を追いつめてきたのは自分でした。
一番自分が自分を苛め抜いて、自分を不安でいっぱいにして、恐怖にいつも追われて、全部自分でやってきました。
自分を許して受け入れる覚悟が出来ません。自分を生きる覚悟が出来ない。いつまでこうしているつもりなんだろう。
ただ自分が決めればいいだけなのに、それがいつまでも私には出来ない。
いつものことですが、とりとめなくなってきてしまったので、この辺で終わりにしておきます。
強迫性障害と罪悪感1
現在の強迫性障害について、幼少期に比べたら全然ましでそこまでは辛くないと思ってきたけれど、今日仕事中に強迫観念を感じて「本当に?」という疑問が沸いてきました。
(自分の感じることに自信が持てません・・・ここ数年、こう思っていたらやっぱりこうだったな~いややっぱり私は本当はこう思ってたんだ!ということがしばしば起こります・・・本当にもどかしいです。)
でも確かに幼稚園の頃の私と比べたら辛くないんですよね。
でもそれは逃げるのがずっと上手くなったからだと思います。ぼやかすのが上手くなったからだと思います。(前と違うことを書いていたらごめんなさい・・・でもどれもあるのかなあと、一つではないのかなと思っています。)
ダイレクトに強迫観念を感じていなくて、もやみたいなのが私の内側にも外側にもかかっていて、それがクッションになってやんわり感じるようになったと思う・・・。
幼稚園や小学校低学年の時は、強迫観念をダイレクトに感じていて、自分しか何とかできないと思って、強迫行為を行わなくてはいけなかった。
幼少期に多かったのは、おかしいのですが、下記の様な強迫観念でした。
自分が誰かを見ているときに、息を吐いてしまうと、その人は病気になったり死んでしまう。
それが現実に起こらないために私がしなければいけなかったことは、息を吸って悪いものを私が自分の中に取り込むこと。
でもそうすると私が病気になったり死んだりしてしまうから誰もいない場所を見て息を吐いて自分からも悪いものを吐き出すこと。
視界に誰かが入っているだけでも見ていることになり、目を閉じて息を吐くと自分に悪いものが入ってくる。
毎日毎日大変でおかしくなりそうでした。ううん、おかしくなっていたと思う。
人に悪いものが入ってしまうよりはと視界に誰かが入ってしまう時は、自分が写る窓を見たりして、息を吐きました。自分の中がどろどろの黒いものがたまっていく感覚がしていました。
妊婦さんのお腹を見てしまい、息を吸っても吸っても悪いものが取れきれない感覚の時はずっと目で追って息を吸い続けた。
でも取り切れなくて。でも知らない人だから、ちゃんと生きているか確かめられなくて、罪悪感で胸が苦しくてどうにかなってしまいそうでした。
私は小学校中学年ころには、上手く呼吸が出来なくなり(今もそうだけれど、すごく呼吸が浅いです。)私があまりにも苦しい(気持ち悪いだったかな)と訴えるので両親が病院に連れて行ってくれ、過換気症候群と診断されました。書いていることで、気付いたのですが、この呼吸が上手く出来ないのは、これが原因だったのかもしれません。
でも診断されたからって何も変わらなかったけれど・・・
私の中では過換気症候群などではないのに、病気と診断されてまるで自分が仮病を使っているように思ってしまってそこにも罪悪感を感じました。
いつも私には罪悪感が付きまといました。
もしかしたら、1番初めに感じた罪悪感から、自分が罪悪感を常に感じることが自然になってしまったのかもしれません。うまく言えないけれど・・・。
長くなってしまったので、続きはまた書こうと思います。